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2014年2月27日木曜日

磐城平九代記 再SCAN

磐城平九代記 再SCAN
これまでに公開した画像の裏写りが酷かったので、再度SCANしました。
送信者 磐城平九代記(再SCAN)


2014年2月26日水曜日

磐城平九代記の津波の記録 読み解き完了

磐城平九代記の津波の記録の読み解き完了しました。

津波浦々へ打寄たる事

延宝五丁巳年と申ハ宝暦十三癸未年迄ハ拾七年ニ
成也 十月九日ノ夜五ツ時大津波寄 小名濱下神白
長崎四ツ倉汀濱江寄リ也 中ニと永崎浦ハ強キよせ
長崎ニテハ男女等共ニ八拾人余リ流死又其乃後元
禄九年子之六月廿七日昼八ツ時ヨリ大波立嵐強キ
四ツ倉迄濱之船破損して舟方浦々ニテ都合弐千
四百五拾人余り打果同七月まで海中より死
骸引揚ケ塚を築是ヲ千人塚とて四倉辺ニ立也

【現代語訳】
津波が浦々へ打ち寄せたこと
宝暦13年(西暦1763)の72年前、延宝5年(西暦1677年)10月9日の夜8時頃、小名浜、下神白、長崎、四ツ倉の海岸へ津波が押し寄た。
中でも、長崎海岸は強く押し寄せて、長崎では男女約80人が流されて死亡した。
また、そのあと、元禄9年(西暦1696年)6月27日昼2時頃から、大波が来て強い嵐になっって、四倉までの浜の船は破損した。
合計2,400人余り打ち果てて、船方がこの年の7月ごろまで、沿岸の海中から死骸を引き上げて、塚を作った。
この塚を千人塚と言って四倉のあたりにある。



考察
この文が書かれたのは、宝暦十三年頃。
延宝五年と元禄九年の津波の様子が記録されている。
磐城九代記に書かれている記録とは違う。


送信者 磐城平九代記の津波の記録
.あとは、ご自由に使ってやってください下さい。

2014年2月24日月曜日

磐城平九代記と津波の記録 その3

津波の記録の比較
よく見ると、「磐城九代記」と「磐城平九代記」とでは、構成が違う、
よく考えれば、「磐城平九代記」などという文献は見たことが無かった、
20年も前に手元にあったが、磐城九代記と思っていたので、深く考察することはなかったが、たぶん、「磐城平九代記」は「磐城九代記」よりも前に書かれたものではないかと推察する。
なぜなら、「磐城九代記」には、津波の記事にしても分かるように、省略されているからだ。
分かる方居ますか?

延宝五丁巳年■■ハ宝暦十三癸未年迄八拾七年ニ成し
(宝暦十三年から87年前の延宝五丁巳年に)

「宝暦十三年から87年前の」この記載は後から書く記載には必要のない情報である。
書いた時が、宝暦であれば必要ではあるが、後年になれば意味はないと考える

津波浦々へ打寄たたれ事
延宝五丁巳年■■ハ宝暦十三癸未年迄八拾七年ニ 
成し十月九日ノ夜五ツ時大津波寄小名濱■神白
長崎四ツ倉汀濱江寄リ之中ニと永崎浦ハ強キよせ 
長崎ニテハ男女■■ニ八拾人余リ流死又其乃後元
禄九年子之六月廿七日昼八ツ時ヨリ大波立嵐強キ 
四ツ倉迄濱之船破損して舟方浦々ニテ都合弐千
四百五拾人余り打果同七月まで海中より死 
骸取揚ケ塚を築是ヲ千人塚とて四倉辺ニ立也


送信者 磐城平九代記の津波の記録

ちなみに、延宝5年10月9日に起きた津波の被害は、千葉から仙台にかけてあったようです。


大日本地震史料 : 増訂 (国立国会図書館デジタルコレクション)







2014年2月23日日曜日

磐城九代記と津波の記録 その2

自分なりに解読して見ました。

津波浦々へ打寄たたれ事
延暦五丁巳年 ■■ハ宝暦十三癸未年迄ハ拾七年ニ
■之 十 月九日ノ 夜五ツ 時大津波寄小名浜■神白 
長崎 四ツ倉汀濱 ■■■之中ニと永崎浦ハ強キよせ
長 崎ニテハ 男 女■■ニ八 拾 人余 リ流死又其後元
禄九年子之六月廿七日昼八ツ時ヨリ大波立嵐強キ
四ツ倉迄濱之船破損して舟方浦々ニテ◎◎弐千
四百五拾人余り打果同七月まで海中より死
骸引揚ケ塚を築是ヲ千人塚とて四倉辺ニ立也

■はどうしても、読めない所です。どなたか解読お願いします。

送信者 磐城平九代記の津波の記録

諸根樟一が勿来文庫版と出した内容とは若干違うようです。

2014年2月14日金曜日

磐城九代記と津波の記録

何気なく、磐城磐城九代記 を見ていたら、津波の記録があった。
でも、内容が磐城誌料叢書のとは微妙に違う。
たぶん上下になっていないので、古い記録と思います。
読んでみてください。


磐城平九代記の津波の記録

磐城平九代記